いのち日記

33w5d 覚悟

 おはようございます。今日は朝、綺麗な満月を西の空に、ぼんやりと明るい朝焼けを東の空に、それぞれ見ることができて、得をした気分になりました。ついこの間も満月を見て、綺麗だなあと思っていたような気がするのですが、あれからもう1ヶ月経つんですね。早い……!

 さて、昨日は妊娠中期までずっと付きまとっていた「喪うことへの不安」についてまとめましたが、ちょっと書き足りなかったかなと思うところがあったため、私の覚悟を刻んでおく意味でも此処に言語化させてください。
 こんな想定をするなんて不謹慎だ、と思われるかもしれません。あまり褒められた選択でないことも承知の上です。ただ、今の私はこう思っている、ということだけ残しておこうと思います。

 妊娠18週後半頃に初めて胎動を感じてからというもの、いのちと「一緒にいる」ことへの実感がずっとあり、共に過ごしたこの数か月は本当に、かけがえのない日々でした。
 いのちはあと40日ほどで外に出てきて、沢山の人に出会うことになりますが、それまでの間、私のお腹にいてくれている間は、いのちの世界には私だけです。意思をもって手足を動かし、音が聞こえていて、目は空いていないけれど嗅覚も味覚もあって、あとは大きくなるだけといった状態のいのち。それでも、今のこの子が知っているのは私だけ。今のこの子が覚えてくれているのは、私だけです。
 この子の世界には真に私しかいません。夫や両親、友人、親戚の皆様、多くの人が誕生を心待ちにしてくださってはいますが、いのちはまだ彼等のことを知りません。まだ、私だけです。

 そんな状態で、万が一、いのちが喪われてしまうようなことがあったなら、生まれてくるより先にその命が絶えてしまうような、悲しすぎる、辛すぎることが万が一起こってしまったなら。
 私は「いのちが寂しくないように」しようと思います。

 全ての生命において、いつ死んでしまうかなんて分かりません。毎日「もしこの時までに死んでしまったら」なんていう想定をしながら生き続けるのはあまりにも息苦しいことですし、不毛です。けれど「生まれてきてくれるまでの40日余りの間に万が一が起こったら」ということは、考えておいてもいいんじゃないかと昨日、ふと思ったんですよね。

 まず思ったのは「その喪失に私は耐えられないだろう」ということでした。時間如きに解決できるような悲しみではないことは容易に想像が付きますし、他の誰も、何も、今ここにいてくれるいのちに取って代わることなんかできません。
 何よりここまで大きくなってくれたいのちです。きっとお腹の中で万が一があったとき、私は動かない体を産んで、抱き上げて、まるでいのちが生きているかのように、頬擦りして、ありがとうと呟いてしまうはず。現時点で既に2000gを超えているいのちです。きっと購入して水洗いを済ませたお洋服を着せてあげることもできるでしょう。沐浴用のベビーバスも丁度いい大きさになっていることでしょう。もう二度と動いてはくれないのに、大きくなってはくれないのに、そんなことをしてあげたくなるのでしょう。想像しただけで頭が真っ白になります。
 夫の、親の、親友の……誰の支えや励ましがあったところで、薄れる苦しみではないように思われます。私は、耐えられそうにありません。そこまでの強さを備えてまで、正しく生き続けようとは、思えません。

 ただ、そうはいっても、私だけの事情であるなら、私を大切に思ってくださっているかもしれない周りの方々が、私に生きてほしいと願ってくれるなら、私はその祈りに縋るようにして、何とか苦しみを誤魔化しながら生きていかれるのだと思います。大切な人を喪う悲しみと寂しさを、私を大切だとしてくれる人に突き付ける訳にはいかないとして、何とかして意地汚く、生き延びていくのだと思います。
 いのちが既にお腹の外へ「生まれてきてくれていた」ならきっとそうできるでしょう。いのちが、私以外の世界を知り、私以外の人に抱き上げられ、私以外の人に微笑みかけてもらい、私以外の人からの愛を沢山貰った段階での別離なら、きっとその「どうにか誤魔化しながら生き延びる」選択もできたでしょう。いのちが私以外の誰かを思い出せる状態でそうした万が一が起きたなら、私もまた、私以外の誰かのために生き続ける気力を取り戻すこともできたでしょう。

 でも今、まだ生まれてきていないいのちの世界にいるのは真に私だけです。まだこの子は一人です。お腹の外を知らず、狭いお腹の中で世界が開かれるのを今か今かと待っている状態です。その状態のまま、誰にも会えないままいなくなってしまうのはあまりにも悲しくないでしょうか。この子の誕生を待ち望んでくれている大勢の人の笑顔、のみならず、今の世界の全てである私の顔や、手の温度、お腹を挟まない声の震え、そうしたものさえ知らないまま、それらすべてが届かないところへ一人行かなければならないというのは、あまりにも寂しくないでしょうか。
 私は、我が子に、そのような思いをさせたくはありません。一日たりとも一人にしたくはありません。独りで待たせたくはありません。

 だから……残りの期間で万が一があったとき、私は他の誰の祈りも願いも制止も跳ね除けて「あなたが寂しくないように」するつもりです。
 歪んでいると思われるかもしれませんが、こんなことくらいしか、このタイミングでの「母」がしてあげられることはないような気がしているんです。
 私よりも大切なあなたを、寂しいままにはさせたくない。誰に笑われようと、これが、今の私の正直な気持ちです。

 一昨年11月に経験した初期流産の「15%(顕微授精においてはこれより少々確率が上がるようですが)」に比べれば本当に「万が一」と呼べる低い確率ですが、完全に安全なお産なんて何処にもありません。毎日のように想像している、生まれてきてくれてからの日々が「確実に」訪れる保証なんてやっぱり何処にもありません。
 その万が一を思って昨日は随分と不安になってしまったので、その時にどうしてあげればよいのか、という想定が全くできていないことに気付いてしまったので……出産直前ではありますが、このような歪な覚悟を結ばせていただきました。

 これだけの覚悟で私は産む。そう自身に誓えたこと自体に意味があったと考えています。またそうした覚悟を経て、お腹の中のいのちに会えたとき、その産声を聞けたとき、きっと喜びは何倍にもなってくれることと思います。
 生まれてきてくれる、ということは、最初から最後までずっとずっと、おそらくは奇跡の連続なのでしょう。あなたが生まれてきてくれること自体が既に奇跡で、かけがえがない。そう、将来のいのちに話して聞かせてあげられるようにしたいですね。

 読んでくださりありがとうございました。

(もうお母さんになるのだから、いつまでも不機嫌な思春期のような、歪なままではいられないなと、妊娠してから色々な考えを是正してきたつもりだったのですが、ここにきてとんでもない「歪み」が新しく出てきてしまいました。不機嫌な思春期の頃には決して持ち得なかったであろう新しい歪み。もしかしたら、母になるということは、歪になるということでもあるのかもしれませんね)

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